なぜネガティブなフィードバックは隠されてしまうのか

会社でも家庭でも、本当にまずいことというのは、案外対処されない。リスクをリスクのまま放置して、いずれインシデントになる。


たとえば、従業員に高圧的な態度を取るスタッフ(Aさんとします)がいて、それを苦痛に感じている人が複数いるとする。当事者含めて周囲の人がそれを認知していても、当のAさんには、それが認知されないことはままある。だれかがAさんに「まずいんじゃないか」とフィードバックをするしかないが、それがなかなか行われない。

なぜか。

 

Aさんにネガティブなフィードバックを受け止める心の準備が出来ていないから、だと思う。無防備な状況に豪速球なフィードバックを投げても、受け止める側は悪い意味で驚いてしまう。

その驚きは、怒りや悲しみになり、フィードバックの内容が届かない。それがわかっているから、フィードバックをする側が躊躇してしまう。

 

僕の知り合いは、毎年一回、無理やり夫婦喧嘩をする日を作っているらしい。そこで、大なり小なりのネガティブフィードバック(要は不満をぶつける)を行うそうだ。その日は、お互いにネガティブフィードバックを受け取る準備が出来ている、ということである。夫婦という数十年の長期プロジェクトを健全に保つための、良いアイデアだなと思います。

 

我々サラリーマンも年に一回くらい、心の準備をした上で、ネガティブなフィードバックを喰らっても良いのかもしれない。そこには、発見もあるだろうし、誤解もあると思うけど、放っておくよりはマシだと思う。放って置いたほうが良いこと(言わなきゃよかった、聞かなきゃよかった、みたいなこと)も、きっとあるだろうけど。。。

 

なお、フィードバックはサラリーマンの特権かもしれません。社長やフリーランスの人はフィードバックは得られず、市場から判断されるのみ!(なので、コーチングとかが必要なのかな)

 

もし最近、考え方や働き方が変わるようなフィードバックをもらっていないのであれば、それは自身が完璧になったか、もしくは隠されているかのどちらかでしょう。後者の場合、なぜ隠されているのかを自問自答する必要がありますね。そういえば、僕ももう5年くらい耳の痛い意見から遠ざかってます。社歴の長さと(元)管理職という立場と口の悪さ(!)が、原因なんじゃないかな、と思ってます。

 

童話「裸の王様」は今にも通ずる話だよなぁ。

育成なのか選抜なのか

社内外の管理職レイヤーの方とお話していると、メンバーの育成に対する悩みが多い。しかし、よくよく聞いてみると、それは「育成」ではなく「選抜」なのではないだろうか?と思った。

 

習得すべき知識や技能があり(役割といっても良い)、それらを身につけるためのカリキュラムを提供し、それが出来ているかどうかをテストする。この流れのことを「育成」と呼んでいるような気がする。テストの結果次第で、「できる」「できない」「めっちゃできる」みたいな評価をもらう。僕はそれは「選抜」なのではないか、と思う。受験や資格勉強の対策に近い。

 

一方、僕が思う育成というのは、あくまで個人に対してのものである。チームとしての期待したい役割もあるっちゃあるが、それよりは「この人は何が好き/嫌いで、何が得意/不得意で、どうすれば伸びるのか」ということに関心がある。それをもとに役割を決めるし、中長期的なキャリアパスも考える。そのため、基本的にはオーダーメイドになる。

 

選抜の良いところは、見通しが立てやすいということにあると思う。決まった役割があり、それをこなせる人が来るので、一度仕組みを作ってしまえば業務が安定する。一方デメリットは、環境の変化に弱いことと、安定と引換にチームとしては停滞に向かうことにある。

 

格闘ゲームでいえば「習得困難なハメ技」に近い。一度覚えてしまえば、勝ちまくれる。しかし、勝ちを集めてはいるが、自身は成長しない。また、ゲーム内容がアップデートされるとそのハメ技は通用しなくなるかもしれない。

 

選抜というシステムは結果がわかりやすい。したがって、改善もし易いし、再現性も高い。一方で僕がいうところの育成は、複雑性が高いし再現性も低い。指導者次第なところがある。パフォーマンスも安定しないが、しかし、驚くような結果が出ることもある。

 

芸術や芸能やスポーツの世界は、ある程度は選抜で人をふるいにかけ、そのあとは指導者(監督やコーチ)がオーダーメイドで育成をしているように見える。サラリーマンは選抜だけで、成長は個人に委ねられている。サラリーマンにも育成の意識があれば、より良くなるのではないかしら。

 

そうは言ってもお前の言う育成ってなんやねん、イメージわかんわ。
という方には、ブルーピリオドという漫画にでてくる大葉先生(美大受験編に出てくる)と、Draft Kingという漫画に出てくる郷原というスカウトがやっていることが、僕が思う育成のイメージです。どちらの漫画もすごく面白いです。おすすめ!

マネジメントのお仕事を始めてから5~6年経ちますが、マネージャーのお仕事の一つにメンバーのアサインがあります。


各メンバーのパフォーマンスと将来性を考慮し、誰に何を任せるか、誰と誰を一緒にするか(あるいはしないか)を、いつも考えてました。

ぶっちゃけ、パフォーマンスの見積もりとアサインは直感でやってるところがあるのですが、最近いい具合に言語化できたので記事にしてみようと思います。

 

パフォーマンスの公式

個人のパフォーマンスは下記の公式で表されると思いました。
・パフォーマンス = センス x 技術 x 実行力 x 運

 

センス

たとえば、画家を二人同じ公園に連れてきて絵を描かせたとき、風景のどこを切り取りどのように表現するかはは、それぞれ異なっていると思います。その違いがセンスです。単純に良い悪いで評価できるものではないですが、筋の良さ/悪さみたいなものはあるし、特定の人/状況にウケる/ウケないみたいなものはあるでしょう。
また、一人のセンスも常に変化しています。
学習による変化というよりは、環境から影響を受けて変化している印象(学習による変化ももちろんあるし、それなりに大きい)

 

技術

絵の例でいえば、頭の中で描いた表現したいものを、紙の上でなるべく忠実に表現できる力のことです。学習可能で測定可能。測定可能なので転職するときとかは、こっちが測られやすい。

 

実行力

たとえば自分が思い描いた絵を書くためには、1年の制作期間と数人の仲間の協力が必要とわかったときに、やりきれるかどうか。みたいたこと。体力、メンタル、メンバーシップ、リーダーシップ、色んな要素がある。
センスと技術があったとしても、実行力がなければ絵に書いた餅。

 

まぁ、チャンスを掴むかどうかは運の要素も大きい。ただ完全とはいかないまでも、多少はコントロール可能かなと思っています。少なくとも無礼な人よりは礼儀正しい人のほうが、チャンスが巡ってくる回数は多いと思いますし。

 

ということで、パフォーマンスを高めるには

センスを育てるには、、どうしたら良いのでしょうね。環境からの変化を歓迎する素直さとかでしょうか。
技術は座学である程度習得可能。
実行力もようわかりません。ある程度、才能の世界な気もする。
運を高めるには、壺を買ったり滝に打たれたりするのも良いかもしれませんが、個人的にはgiveのマインドもち、礼儀正しく過ごすのが良いのではないのかな、と思います。

 

おわりに

自分のパフォーマンスを因数分解してみると良いかもしれません。どこが強みでどこが弱いのかわかるかもしれない。

面接と商談は似ている。というか似せていきたい。

面接を受けるのも苦手だし、面接官のお仕事も苦手な業務のひとつです。

 

何がその苦手の根本にあるのかな、と考えてみたときに、「目的と効果がいまいち不明瞭な質問とその解答で、評価が決定されること」にあるような気がした。ということは、それらをクリアにすれば、面接ももっとマシになるのではないか。

 

それを踏まえて、面接で一番重要な事項は「募集の背景」だと思う。まずはそのすり合わせが企業側と候補者側で行われる必要がある。それもせずに面接を行っても、意味のある面接にはならないだろう。

 

商談をイメージしてみると良いかもしれない。商談といっても、たとえば、家電量販店で家電やスマホやPCを買うときのイメージで良い。

このとき、お客側は「欲しい商品と、それによって解決したいこと」がある程度明確になっているはずである。「皿洗いが面倒くさいので食洗機が欲しい。予算はこれくらい」みたいな。この要望が面接における「募集の背景」となる。

一方、お店側(面接における応募者側)は、お客の要望にマッチした商品を提案することが最初のステップとなる。お客の要望を把握せずに商品を提案すると、食洗機を探しに来た人に洗濯機の説明を始めるようなことになりかねない。これでは、まず売れないし、仮に売れてもクレーム(=採用のミスマッチ)になるだろう。

 

面接に話を戻すと、繰り返すが、まず最初に募集の背景のすり合わせが行われるべきである。企業側から説明したほうが良いと思うが、仮にそれがなかった場合、候補者側から募集背景を聞くと良いだろう。すり合わせが行われたなら、その後の質問は、その募集背景と絡めた質問と解答をすることができる。これによって、面接はより有意義になるし、ミスマッチも防ぐことができると思う。

 

 

コミュニティへの貢献に対する報酬について考える

先日、とあるミーティングで「テックブログ等で社内外への情報共有を活性化させるためには、どうすれば良いか」という話題になりました。結構、活発な議論になりまして、その時は「記事を書いてくれた人に何かしらの報酬が支払われるべきか否か」が焦点だったように感じました。


私自身、頼まれても居ないのにこうやってブログを書いたりしますし、誰かに頼まれて外部露出をすることもあります。このとき、正直、報酬は意識していません。意識していませんが、経験上自分に何かしらのメリットはあるなぁ、くらいの感覚はあります。
このぼんやりとした感覚に向き合ってみたところ、うまく頭の中でまとまった気がするので、記事に残してみます。


事業への貢献とコミュニティへの貢献

まず、我々は従業員は事業への貢献を期待されています。スキルと時間をアサインされた事業に費やし、事業の売上やユーザー数を伸ばすことが期待されています。僕らの年俸と紐づくのもここでしょう。


一方、冒頭のテックブログや外部露出の話を少し抽象化すると「コミュニティに対する貢献への報酬は何か」という問いになると思います。コミュニティとは何かというと、会社であったり事業部であったり所属グループであったり。


コミュニティに貢献するメリットは、「自分自身が良いコミュニティに所属することができる」ことです。良いコミュニティを自らの手で作り出せるためです。そして、良いコミュニティに所属していると、ストレスが減ったり業務に集中できたりするので、事業への貢献もやりやすくなるかもしれません。


コミュニティへの貢献は、「従業員がやりたければやってもよい」程度のものだと思っています。「やらなければならない」というのも、ちょっと違和感がありますし、「事業の貢献に直接結びつかないものはやるべきではない」というのも窮屈に感じます。
些末な例でいうと、自分の番でトイレットペーパーが切れたら、次の人のためにトイレットペーパーを変えてもいいし変えなくてもいいのです。ただ、変えてくれる人が多いコミュニティの方が、良いコミュニティになる気がします。

 

コミュニティへの貢献の報酬

事業貢献への報酬がお金(=半期ごとの評価)であるならば、コミュニティ貢献に対する報酬は「機会(チャンス)」だと思います。


コミュニティに貢献している人は、周囲の人がポジティブな印象を抱いてくれることが多いです。すると「あの人と仕事してみたい」「あの人にこの仕事を任せてみたい」となり、新たな機会が提供されやすくなるでしょう。新たな機会が提供されることで、結果として、自身の成長にも繋がっていきます。


直接的なメリットではなく、間接的(時差がある、と言っても良い)なメリットを得られることが、コミュニティ貢献への報酬の特徴なのかもしれません。


で、どうすればコミュニティが活性化するわけ?

たしかに。
コミュニティ貢献の報酬についてはスッキリしましたが、どうすればコミュニティが活性化するのかまでは、考えてませんでした。コミュニティ貢献の報酬は間接的なので「別に今はやらなくてもいいや/私がやらなくてもいいや」という判断がされがちです。その重い腰を上げてもらって、コミュニティ貢献をしてもらうには、メリットではなく充実感を餌(言い方)にする必要がありそうです。

ふと思ったのですが、これって献血の構造と似てる気がしますね。痛みを伴って献血しても本人に直接的なメリットはほぼありませんが、「何か良いことをしたぞ」という充実感があります(などと言ってますが、私は献血したことありません。やったことがある人がそう言ってただけです  )。

どうすればコミュニティ貢献から距離を置いているひとに、コミュニティ貢献の充実感を感じてもらえるのでしょうか。別の問いに置き換えると、どうすれば私は献血に行くのでしょうか。うーん、痛くなかったら行くかな。ということは、面倒臭さを解消すれば良いのでしょうか。でも、面倒くさいことをやるのがコミュニティ貢献だと思うしなぁ。となると、いっそのこと報酬をだして・・・(最初に戻る

ちなみに、献血が習慣になってる知人にきっかけを聞いたら「友人に誘われた」とのことでした。確かに学生の頃も、数人で献血に行ってる集団があったなぁ。献血の後にハーゲンダッツをみんなで食べるのが楽しみだったとか。

なるほど。たしかに近所の自治会しかり、コミュニティ貢献している人は、コミュニティ内でのコミュニケーションがご褒美になっている気がしました。つまり、コミュニティ内のコミュニケーションをご褒美にするのが良いのかもしれません。

 

答えは出ない!まぁでも、「目先の損得で判断せずに、とりあえずやってみようぜ」で、半ば無理やり巻き込むのが良いような気がしてます。

たとえ話:知識を身につけることの大切さをトースターで例える

ゲームQAの人はWeb系のQAと比較すると、あまり勉強熱心じゃない気がする。勉強の必要性を感じていないのかもしれない。JSTQBのような資格の取得を促しても「それは意味があるのでしょうか?」と言われることも、ままある。

 

勉強の何が大切なのかというと、勉強しないと自分のスキルを言語化できないことにある。言語化できないと、仕事をセンスでこなしていることになる。ちなみに言語化されたものは、「技術」とか「スキル」とか呼ばれ、それは再現可能・持ち運び可能なものとなる。

センスだろうが技術だろうが、仕事ができているならそれでいいじゃないか、というかもしれないが、センスというのは測ることが難しい。測ることが難しいと何がまずいかというと、何が凄くて何が足りてないのかを第三者が測ることができない。それはすなわち、評価が難しいということである。

 

たとえば、パンを焼くトースターを考えてみる。
センスだけのトースターとは「なんかしらんけど、めっちゃ美味しくパンが焼けます」というトースターである。さて、そのようなトースターが家電量販店に並んでいたとして、あなたは買うだろうか。買うとして、その値段が妥当かどうか、どうやって判断するのだろうか。

 

家電量販店でトースターのスペックを見てみると、「4枚同時に焼ける」「2秒で一気に加熱する」「水蒸気の効果で外はカリカリ中はふんわり焼ける」「掃除がラク」といったことが書かれている。何が出来るのか/出来ないのかが一目瞭然であり、他のトースターと比較可能になっている。

 

自分のスキルを言語化できないと、他者と比較ができない。それはつまり、自分の市場価値がわからなくなる。よくわからないものに高い値段をつける人は少ないので、したがって、自分の年収は低く抑えられがちになってしまう。ゲームQAの年収の低さの原因のひとつは、ここにあるのではないかなと思う。仕事ができる人は結構いるけど、説明ができず年収は低くなりがち(その代わり「リーダーをやっていました」みたいに、肩書で語る人が多い)

 

「勉強しよう」よりも「自分を正確に説明できるようにしよう」と声をかける方が、勉強によるメリットを具体的にイメージできて良いかもしれない。たぶん。

地域ボランディアに参加し、ゲームQAとの共通点に気づいた、の巻

地域のボランティア活動に参加してきた。

 

とりあえず、指定された場所に行き、適当に挨拶していると、「ボランティアの方ですか?この荷物をあそこの地点まで運んでください」みたいな指示が来て、そのとおりにやる。それが終わると、また別の指示が来て、そのとおりにやる。それを繰り返している内に、作業が終わった。

 

作業の全体像が見えない中で仕事をするというのを、久々に経験したな。おそらく、全体像を把握しているのは、その場の1~2割のコアメンバーだけで、他の人はコアメンバーの手足として動いている。また、ボランティアの中には、おそらく現場仕事をやられている方とか、キャンプを趣味にしている方などがいて、その人達のパフォーマンスは、他のメンバーよりも目に見えて高かった。

 

まるでゲームQAの現場みたいだな、と思った。

 

全体像を知っているのは一部のテスト管理者のみで、テスターたちは管理者から与えられたテスト項目書の消化に集中する。そして、テスターの中にはいわゆるゴットハンドみたいな人が居て、他のテスターよりも生産性が高い。

みたいな。

 

今回、100人規模のボランティアだったが、あれよあれよと作業は片付いていき、数の力は強いのだなと思った。

 

ゲームQAの仕事を大量の単純作業に落とし込むならば、このボランティア形式のやり方は悪くないだろう。管理者が優秀であれば、あとは人をかき集めれば良い。ただ、このやり方のデメリットは、単純作業をしているスタッフ(つまりはテスター)は、スキルが上がりづらいし賃金も上がりづらい。

そしてゲームQA業界は、このデメリットを現在まで解消できずにいる。